続・Puppet Show ー 内省日没地区。とある往復書簡。ー

 持つべきものは友人とよく言ったもの。先日アップした記事を友人にシェアしたら、ありえないほど素敵な文章が送られてきたので、今回はそれを原文そのままアップしてみます。真摯に記事を読んでくれた友人に感謝すると共に何よりこの麗しき魂の共鳴をもたらしてくれたPlastic Treeには頭が上がらない想いです。音楽は人と人とを、日常的なコミュニケーションとは異なる形で繋ぐ媒体でもあるんだなあなんて思いながら、本日煙草をふかしておりました。それでは、早速。

 

 

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『Puppet Show / Plastic Tree - 膨張する音楽堂』を読んで


 終わりよければすべてよし。人生の最期に観た景色や最期にした話によっては、それまでの人生がいかに悲惨なものであったとしても、多少は浮かばれることもあるだろう。創作物において、登場人物が笑顔で逝く場面はわかりやすい名シーンだ。


 では走馬灯はどうであろうか。死を受け入れた内省である。自らの生命が今まさに尽きようとしている、その瞬間に見ることが許される一回きりのやわらかな灯り。現実の景色や会話と違って場面を切り取るという点で、これは幻想的でありながら恣意的なものでもあるかもしれない。


 では rarukazu 氏はなぜ「寂しくも愛おしい、あまりに美しい走馬灯」を『puppet show』に見てしまうのだろうか。これを考えるために、『puppet show』の一部楽曲について氏の示したポイントとともにみていこう。


 「May Day」に関して、「歪む心臓 手の中の蝶 七歳の午後」と氏が引用した通り、これは幼き日々の回想である。ただ他のみんなはどこか別の場所にいるらしい。孤独で考えながら狂いそうになり、「だんだん壊れ始めてまた戻るんだ」と日常的でありながら病的な次の曲「リセット」に続く。「幻燈機械」は「何からはじめてみる?今日はそうだな誰と上手く話そう」と氏が引用した通り、前向きな曲かと思いきや、続く「薄暗くなりだせば、きっと僕を迎えにくるはず」が示す通り受け身である。「僕」の側に居てくれる「君」もまた映し出された亡霊なのだろうか。薄暗くなりだせば幻燈は強くなると思ったら、居なくなる「君」は空想でしかないのだろうか。舞曲であるポルカが遠くから聴こえる、「僕」は華やかな場所、みんなの居る場所から離れている。しかし誰も迎えにはこない。誰かが連れ出してくれることを期待しながら一歩も動けずにいる「僕」は何と孤独だろうか。そうして傷つくことを恐れるあまり、投げやりになった『「ぬけがら」』へと続く。氏が衝撃を受けた「3 月 5 日。」に関しては後で述べるとして、本作は内面に変化が現れた「サーカス」で終わる。氏が「窓の外に目を向ける意思を示す」と述べているように、あくまで意思の発現であり、行動に移すまでには至っていない。また当楽曲はこれまでの曲といくつかのモチーフを共有している。セルロイド、奇形のロバ、ブランコである。愚か者・怠け者の象徴であるロバと子どもの象徴であるブランコからは、自虐的なニュアンスが伝わってくる。


 走馬灯という単語から連想される物語がある。アンデルセン作の童話『マッチ売りの少女』である。雪の降る大晦日の夜、裸足の少女は街行く人にマッチを売る。買ってくれる者はなく、家にも帰れない。空腹と寒さが襲うなか、少女はマッチに火を点ける。あったかいストーブや、ガチョウの丸焼き、大きくてきれいなクリスマスツリー。そして愛してくれたおばあさん。マッチが照らす光のなかに浮かぶ幸せな光景。翌朝少女は冷たくなった状態で発見される。



 この悲しい物語と「3 月 5 日。」との間には、共通する点が存在する。それは「おめでたい日の前日」という設定である。『マッチ売りの少女』は新年を迎える前に力尽きる。一方楽曲は氏によれば『ボーカル竜太朗の誕生日の前日を指すタイトルに導かれるのは仮タイトル「遺書」と呼ばれるだけある、余りに痛切な孤独の独白』である。手紙を書けた「3 月 5 日。」では滔々と歌う部分が多く、決して浮かれていない。


 以上を踏まえて本作に関してまとめてみよう。本作を貫くのは孤独と回帰である。みんな居なくなる。僕だけ一人。日の光は等しく降り注ぎ、時間は過ぎ去る。僕は変わらないまま。孤独に苛まれ、狂いそうになる。いざ狂っても狂いきれないなら正気に戻るほかない。こうした一連の流れが作品を形作っているように思われる。氏が本作全体を通して「一人っきりの世界は円環する」と評したのは、輪廻転生に通ずるように思われる。また氏が「走馬灯を見せるこのアルバムは、きっと私を殺してくれるだろう。何回でも死ねばいい。ここに来れば何度でも死ねる」と述べていることを考えれば、仮死状態を味わうことができる作品といえる。別の言い方をすれば、死んでしまう前のセーブスポットと考えることもできる。少しでもずれてしまえばそのまま消えてしまう危うさがありながら、やわらかな灯りを向けられていると聴く者は感じるのだろう。「寂しくも愛おしい、あまりに美しい走馬灯」を本作に見出した氏の心の豊かさに脱帽である。


 最後に、表題について述べたい。表題である『puppet show』は日本語で「人形劇」を意味する。人形劇であるのだから、当然人形を操る存在がある。「僕」が人形であるのなら、意思疎通が図れない「君」は神なのだろうか。そうだとすれば、繰り返される理不尽との闘いのなかで疲弊し、責任の所在を自分の外に求めようとする歌詞にも合点がいく。ここでキーワードのように登場した「セルロイド」が思い出される。セルロイドはその用途として、セルロイド人形が有名である。セルロイド製の「僕」は、その可塑性で歪んでしまった。しかし同時に可塑性ゆえに変わることもできるのだろう。そして「サーカス」に出てくる「セルロイドで出来た君の抜け殻」は、「君」という存在を気にしなくなったことを表しているのかもしれないと思ったけど、もうわかんなくなっちゃった。おわり。

 

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 いかがでしたでしょうか。すごいでしょ?羨ましいでしょ?え?自慢ですけど!!!!なにか!!!!

 改めて友人にありがとう。今度の旅行楽しみだね!!!!